ゴミの生活

■2009年11月04日(水)00:33  餃子と大川翔子(劇団競泳水着)
本日3回目。といっても日付が変わったので、本当は本日1回目。まとめてやるなら小出しにやれよよ思われるかもしれないが、その通りです、すんまそん。今回は映画と芝居。

見たもの。映画『グアンタナモ』(監督、忘れた)。「悪の国家」アメリカがキューバに持つテロリスト「養成所」に無実の罪で実際にぶち込まれてしまったイギリス国籍のパキスタン青年三人組のドキュメンタリー風映画。これ、ほんと、ひどい。あれでアメリカに敵意を抱かない人間がいたら、寛容すぎて神になれる。いろんな拷問があるものだ、と関心してしまうほどだ。腕に足をひっかけるように手錠をかけ「うんこ座り」のまま動きを取れないようにした上で、暗いコンテナに閉じ込め大音量でヘビメタをかけるなんていうのもある。これは、ほんと、ひどい。以前、『ワシントンポスト』か何かで読んだが、情報収集の手段として拷問は思っている以上に効率的ではないらしい。それはイラクの大量破壊兵器「捏造」が一つの証左でもあるのだが、結局、長い間拷問をされた人は相手の望む答えをする心理的傾向がある。考えてみれば当たり前のことだが。イラクのアブグレイブ収容所での捕虜虐待は、現地の軍とは別系統の民間企業が入って依頼主がせっせせっせと情報収集=拷問をするようにいったからだ。またワシントンはワシントンで、拷問の定義を変えるという技を敢行。これは、ほんと、ひどい。

映画『ナイン・ソウルズ』。『青い春』の監督の人ね。刑務所で耳にした隠し金を求めて脱走した9人の囚人が、金がスカであると分かったあとに思い思いの場所に散っていく。千原ジュニアが地元赤羽で仲間を2人殺した元不良という役で、赤羽の商店街(種屋の通り)を自転車で走り抜けたり、荒川の土手で野球をしたりというシーンがあって良い。松田龍平の父殺しのひきこもりが原田芳雄の息子殺しと葛藤しながらも世界へ向けて開いていこうとするところも良い。あと、マメさんが好き。

犬童一心『死に花』。犬童の他の映画のようにこれも原作つき。超がつくほどの高級老人ホームに住んでいる4人のじいさんが、仲間の死をきっかけに彼が残した銀行強盗計画を実行に移そうとする。老人の生と死、そして性まで描こうとしていたのはとてもすごいのだが、結局、彼ら4人は「金持ち」なのであった。計画の途中で仲間に引き込んだホームレスのように、何も持っていない老人をもっと取り上げてもらいたかった。いつまでも元気でいることがいつまでも子供であることとつながり、老人が子供に「戻る(痴呆)」ことをある意味で肯定的に捉えようとしているは良い。

見た芝居。Attention Please『Jun Ai Code』@王子小劇場。記憶喪失になった男と、彼と別れたがっている妻。この二人の関係を縦軸に、そして横軸にはゴーギャンの絵画をすえ、現代物質文明において幸せとは何かを描こうとする野心作。物質文明批判、人間の生と死を一枚のフレームに納めたゴーギャンの絵画(ああ、タイトル忘れたよお)を実際に舞台奥に配置し、半ば予想できたことだが、物語の最後はこの絵画と見事に対応する。人が死に、人が生まれる。とはいえ、並み。

時間堂『small world’s end』。王子小劇場から歩いて1分のところにある王子スタジオ1のこけら落し公演。ビルの1階、ガラス張りなので外から丸見え。休憩を挟んで短・中篇の芝居5本、合計4時間。時間堂の芝居はいつもそうなのだが、劇の最中に飲んだり食べたりできる。疲れてきたらビールを飲みおかしをむしゃむしゃとやっていたら、4時間は意外とあっさりと過ぎていった。難破してたどり着いた島で主人と奴隷の立場が逆になってしまうことの「恐ろしさ」と「希望」をコミカルに描いたピエール・ド・マリヴォー「奴隷の島」。舞台と客席があまりの近いので大川翔子(劇団競泳水着)にほれそうになったのは内緒だ。チェーホフの「熊」では、熊のような金貸しにためらいなく決闘を挑む境宏子にほれそうになったのも内緒だ。他に上演されたのはアゴタ・クリストフ「星々を恐れよ」など。この後からしばらくむやみやたらにチェーホフが読みたくなるので、本屋で戯曲を買ってきた。小劇場の向かい側にある餃子屋で飯を食べていたら、片付けを終えた大川翔子ら数人の役者がやってきた。うひょー。役者って人間だったんだ、と実感。話かけようかと一瞬思ったが、恥ずかしかったのでやめた。だいたい、なんて声をかけてよいのかわからない。

チャリT企画『プレイバック Part3』@王子小劇場。おそらく毎回なんらかの政治的テーマを取り込んで作劇していると思うのだが、今回は歴史記憶と修正主義。ある文豪の遺言をめぐる家族のいざこざと、南京大虐殺が混ぜ合わされる。面白かったのは、今より時が未来に設定されていて、天皇が死に平成が終わり、安徳と呼ばれる年号に変わっているところ。学生運動といえば60年代なら左翼学生だったが、安徳の時代では右翼学生が「自虐史観」やら「弱腰外交」に反発しているという設定。「大和ルネッサンス」なんていう言葉もあって楽しい。物語はそれなりの終幕を迎え、かつ見ているものには不安を残す不協和音を演出によって奏でているのだが、もう一ひねり欲しい。もっともっと後味の悪さが欲しい。もっと悪趣味にしてはどうだろうか? 

追加で読んだもの。岩永文夫『フーゾク進化論』(平凡社新書)。これを読めば、なぜソープランドの前身がトルコ風呂なのか、大阪には裏風俗のちょんの間があるがどうして営業が可能なのか、赤線と青線の違いとは何か、赤線から売春禁止法の間にできた売春宿が「カフェー調」建築(鳩の街などにあるやつね)なのはなぜか、などなどなど旧遊郭・赤線マニアが気になっていることを歴史的に説明してくれるたいへんありがたい本。

■2009年11月03日(火)19:04  同人誌即売会と企業合同説明会はもっと混ぜるべき
本日2回目の更新。キーワードはアウトプットしないとバカになる。

先日、朝から野暮用で有明テニスの森に行った。野暮用は意外なことに午前10時半ぐらいで終わってしまい、時間をもてあますことに。来るときにはりんかい線を使い、なぜだか今日は混んでるなあと思いよくよく見てみれば、国際展示場=ビッグサイトではなにやらイベントが開かれている様子。駅からぞろぞろと行列になっているのは若い女性ばかりで、中には「旅行用カート」をごろごろやっている人もいる、ということで女性向け同人誌の即売会であると判断。野暮用終わったあと、時間潰しで行ってみると「コミック・シティ」とかなんとかそういう感じのやつだった。入ろうと思って入り口まで行くが、カタログ=1100円を購入しないとダメといわれたので断念。

んで、帰りに同じくビッグサイトでやっていた「就職エキスポ」という企業の合同説明会にもぐってくる。完全私服で向かったので途中係りの人間に「こちらは就職エキスポです」と確認されてしまった。というくらい、周りはリクルート・スーツ軍団のアウェー。皆、必死だ。私は一般企業の合同説明会などに行ったことないのだが、ああなんだか大変な雰囲気なんだと感じる。かつて参加したことがある友人にあとで聞けば「ああ、あれ意味ないよね」という類のものらしいのだが、それは後になって言えることで、現在進行形のものにはちょっとねえ。これから生きていくのに余裕が必要なんだ、と感じた次第。というのも、就職エキスポから帰ろうと動く歩道に乗っていたら、目の前にいる二人の男女の学生が一つ下のフロアでやっている同人誌即売会をなんともいえない複雑な視線で見ていたのを、私がじっと観察していたから。

人生を豊かにするのは、きっと労働ではなく、きっと文化なんだ、と勝手に叫ぶことでこの物語の教訓としたい。

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読んだ本の続き。姜尚中『ニッポン・サバイバル』(集英社新書)。実は姜尚中の本はこれが初めてのものなのだが、期待はずれの面白くなさ。だったので、特にここに書くことなし。もっとマシな本も書いているのだろうが。

内藤朝雄『いじめの構造』(講談社新書)。以前、ここで紹介した『いじめの社会理論』(柏書房)をもう少し一般に分かりやすく噛み砕いたもの。世にはびこるいじめ論の矛盾、「子供たちはアナーキーだ」「子供たちは秩序だっている」「子供たちは大人だ」「子供たちは幼稚だ」などなどを、子供たち独自の秩序――これを内藤は「群生秩序」という――が教室において支配的になったためにいじめが起こり、大人社会=市民秩序から見れば子供たちの群生秩序はノリやその場の雰囲気・空気だけしか大切にしない「幼稚」なものとしか見えない一方、当の子供たちにしてみれば自分がやられてしまわないように高度な生存戦略をとるという二面性を指摘することで、解き明かす。

内藤の論のポイントはいくつかあるが私が気になった点は以下。まずは先にもふれた子供たちの秩序(空気=同調圧力)と市民社会の秩序のズレ。暴力、恐喝、殺害・自殺にまでいたるいじめのハードケースはソフトケースの段階で市民社会の秩序、つまりは法を積極的に学校という聖域に入れることでなんとかなる場合があるという指摘は、その通りだと思う。空気を読む能力というのはある意味でリスク管理能力で、社会経済的に見てリスクが大きいと思われる行動は慎むから。また、内藤がいじめ行為を分析するにあたり、加害者が感じた抽象的な不全感を他者への暴力・支配といういじめという具体的な行為を通じて全能感として解消し、またそのことによって全能感を支える筋書きを実行できる外部環境ができあがるという一つの螺旋運動としてとらえているところも大いに共感する。このモデルは非常に有用で、加害者が被害者に「依存」している点、被害者が反撃をすると加害者は被害者以上に「傷つく」点、いじめは常に複数で周囲のものも重要な存在である点などをまるっと含んで説明できる。

いじめの加害者‐被害者の関係というのは、内藤がいくつかのユニークな名称をつけたロールモデルが示すように、非常に不思議だ。(一般的解釈の)主人と奴隷の弁証法に近いのかもしれない。また投影同一化という心理プロセスもいじめには見られる。これはかつていじめられていたものが自分の中にある不全経験を他者=いじめ被害者に投影し、その上でいじめ被害者を攻撃することで克服するという過程を指す。元被害者のいじめを耐えたという「タフ」の経験は、いじめをうまくやりおおせている(逃げられた/手を出す側にまわった)という経験を通じることで昇華される。

いじめ対策として内藤が提示しているのは、学校の法化と学級制度の廃止だ。両方ともよくわかるのだが、実現はなかなか困難。学級制度が狭い空間に閉じ込めた人間に「仲良し」を強制することで、空気を読むというサバイバルをしなければならなくなったのだと内藤はいう。この内藤の考えに、「学校教育というのは公共心を育てるためのもの・集団で生活することの意義を説くもの・これから社会に出て行く上で必要なことを教えるための場所」という反論が想定される。が、内藤の論によればそれらも容易に一蹴することができる(内藤自身はそこまで言及していないが)。社会に出れば当然、様々な場面で共同性を発揮しなければならない。これはわかる。具体的には仕事だったりするわけだが、しかし気をつけなければならないのは、仕事はあくまで手段としての「協調」である点だ。目的は社会経済的な利潤。他方で学校は、目的としての「協調」となる。

それでは、こういう反論はどうだろう。社会も学校同様に「不自由」なのだ、と。市民社会では「自由」に関係を接続/切断することができるかもしれないが、それは理想であって、現実には学校生活も社会生活も「不自由」ではないか。内藤ならば、社会の「不自由さ」はしかし社会の社会性によって、つまり社会経済的利潤を求めるという「目的」によって調整することが可能である、と反論するかもしれない。しかし、事態はもっと深刻でなにより皮肉である。

姜尚中の発現ではないが、現在、職場で求められるのも場の空気を読むことであれば、社会的な関係もまた急速に「不自由」になっているのだろう。経済的状況ゆえに容易に職を変えることもできないのだし。ということは、逆説的に学校の狭い密閉空間で空気を読むサバイバル術を身に着けることは、会社という学校よりはすこし広いがそれでもやっぱり狭くて密閉された共同体内で生き残る=サバイブするのに何より役に立つともいえる。これはつまり「学校は社会に出るための練習場所」ということか。なんなんだこれは。ハイパー・メリトクラシーなんて呼ばれるが、今現在、会社でもっとも求められる力が「人間力」だとか「コミュニケーション能力」だとかそういった抽象的で、それを求めることがある意味「無敵」であるような能力である場合、空気読む力なんていうのはもっと育てていなければならないといえてしまうあたりが末期症状だ。労働問題は教育問題と連結しているというのが、当たり前かもしれないが私の思っていることで、となると現在の雇用・労働システムの問題をなんとか改善していかないと、内藤が思い描くようなバウチャーによって保証された、魅力による自由な連帯を可能にする教育制度なんて実現不可能だ。

内藤の長期的な提言に対しての不満は、基本的に前回に書いたことと同じ。今回、付け加えるとすれば学校のシステムだけを変えたのでは無理で、現在の雇用・労働システムとあわせて改善していく必要があるだろう、ということ。

読んだ小説。万城目学『鴨川ホルモー』(角川文庫)。万城目のデビュー作。大学を出て繊維会社に2年勤めるが、工場から本社勤務に移る際に自分の時間が取れなくなると聞いて、思い切って退職。その後、フリーターを続けながら2年間、書いては投稿、書いては投稿、ということをやっていたら、ボイルドエッグ新人賞を見事ゲット。30歳のときだった。最近は、本を買うと作家の誕生年とデビュー年を真っ先に見て、引き算をする。何歳のときにこの人がデビューしたのか、を知るために。それはさておき。『鹿男あをによし』よりも断然、面白かった。が、森見を連想させ、かつ森見ほどではないなあと結論させてしまうあたり、苦しいところ。でも、私はそんなあなたを応援します。明日から3泊4日で奈良・京都に行ってくるので、よい予習となった。

■2009年11月03日(火)17:58  包茎手術は美容整形外科の陰謀だったんだよ!
10月締め切りのでかい仕事を息も絶え絶えに片付けた。結果がどうなるかはとりあえず今はあまり考えず、今後の改善としては最後が徹夜になってしまのをなんとかすることだろう。全体の3分の1を最後の一晩でやったというのだから、始末が悪い。70〜80枚を書くことができるのであれば最初からやれ。そうすれば、余裕をもって直すことができるのだから。

時間があれば本をちびちびと読んではいた。

阿部真大『ハタチの原点』(筑摩書房)。筑摩から新書ブームの一環として(?)でた新しい叢書のうちの一つ。表紙がよしもとよしともであることと、著者が若年者労働について言及しているという2点から買った。なかなかあたり。80年代から00年代の流れを消費という外部の発見から、それの喪失、その後にやってきた仕事の趣味化(趣味の仕事化ではない!)としてとらえる。その上で、ロスジェネの問題を新卒採用主義と終身雇用制という入り口と出口の決まったパイプによる構造的なものだと指摘。現実としてあるフリーターの雇用差別を解消するために雇用の流動化、つまり人々が公平であると「思うことができる」競争のシステム構築を目指すべきだと提言。「好きを仕事にするな」というのではない。そうすることが現状ではリスキーであり、そのこと自体がおかしいのではないか、「好き」は独創性ともつながっているはずだからという論調でつまりそれは『朝生』の若手論客と共鳴するところがあったのだ。

読んでいてたいへん勉強になったのは、「均分相続」という法律ができた経緯。財産分与の際に遺言があっても財産をわけるのもののなかで遺留分(ある程度の均等化)が生じるこの法律は、長男が家を継ぎ老いた親の介護をすることが「無償の愛」だというイデオロギーが出発点となっているのではなかった。むしろ、「無償の愛」が想像上の原風景として歴史的に捏造されていた。戦前の家族モデルを「家的直系家族」とし、戦後、理想のモデルとして想定したのが「絶対的核家族」であった。この絶対的核家族は福祉国家への期待(つまり老いた親は国家=共同体が面倒をみてくれる、子孫への福祉義務の免除)と家制度批判(長男がどうこうすべき)を掲げたが、戦後60年以上経った今でもこの理想は現実となっていない。おちついたのは「修正直系家族」モデルで、福祉は共同体より家族が負担し、にもかかわらず戦前的家族制度への批判が織り込まれていてややこしい。親の介護をしつつもそれをすることが当たり前であるために、財産分与では「平等」に扱われ、実質的に介護労働は「無償化」されてしまう、というのが現状である。

なーるほど、と我が家の介護および相続の問題を省みつつ得心したのであった。

この叢書からもう一冊。澁谷知美『平成オトコ塾』(筑摩書房)。こちらの表紙はしりあがり寿。男同士の友情、DV、非モテ、包茎、風俗の話。こちらは阿部と比べると、経済的なサポートよりも情動的なサポートに焦点をあてて、現代の若者(対象読者は男性ね)が(感じているとされる)生きにくさをどう支えていくかという論調になっている。

例えば男の友情と非モテ。非モテには内発的なものと外発的なものがある(らしい)。内発的とは、「うおおお、俺がっ、俺はっ、モテたい!」というものは、原因は異性=女性との性的接触(セックス)を求めるものと、他者からの承認を求めるものの2つの下位区分にさらに分かれる。外発的とは「うーん、なんでこんなに恋しよう恋しようと皆が言うのかが分からない」という社会に蔓延する強迫観念への違和感を覚えているもの。非モテ問題は経済格差や出会う機会の問題ではない、と澁谷はいう。たしかに現実をみれば経済的に貧しいがゆえに女性どころじゃないというのもわかるが、じゃあ金を持っていれば全員、モテになれるかというとそういうわけでは当然なく、経済格差を解消した後に残るむき出しのモテ‐非モテ格差を「荒涼とした風景」と澁谷は呼ぶ。急いで付け加えるならば、何も経済格差をなくすなといっているわけではない。経済格差は経済格差、モテ格差はモテ格差として別個に考える必要がある、ということ。

山田昌宏がいうように出会いが増えれば増えるほど、そしてモテに必要とされる魅力が全てではないにしろある程度が資質として生得的なものであるゆえに、(例えば)結婚は難しくなる。またマニュアル等も細分化され、このモテレースにのってついていくには、そもそもそれを不得意とするもの(そういう共同体価値観で生きてきたもの)には、たいへんな労力を必要とする。ので、経済的セーフティ・ネットではないが、思想的なセーフティ・ネットを社会に構築し、従来は異性が与えていたとされる情動的サポートを、例えば男女問わず友人であるとか、2次元であるとか、そういったものによって得られる環境を作っていくべきではないかという。これはわからなくもない。ただ『モテキ』の最新回ではないが、男女の間の友情というのは恋愛を断念したところから生まれるのだろうし(それはそれでいい、とも思うが)、ということは断念できないこともありえるわけで、さて困った。まあ、よくある話です。いや、私の話じゃないからね! 

あと、澁谷の論で一番、違和感を覚えたのは風俗嬢=セックス・ワーカーという話。風俗嬢がしていることはマッサージ師と原理的に同じであり、売春が問題なのではなく売春が「暴力になってしまう」ことが問題なのだ、とする意見。おおむね賛成。ただ、本当に風俗嬢がマッサージ師と同じなのだろうか? だとしたら、ソープランドで働いている風俗嬢は、マッサージ嬢として考えるべきだが、私たちはそう考えていない。また、やっていることが「マッサージ」だとしても、常に「性的マッサージ」であるとか「風俗マッサージ」であるとか、従来のマッサージと瞬時に差異化されてしまう。この差異化されること、彼女たちのやっている行為が性化(セクシャライズ)されてしまうことは、どう考えればよいのだろうか。

澁谷は「風俗でのサービスを労働と考えることと」は論理的に正しいというのだ。これも私は同意する、のだが急いで付け加えたいのは「感情的には反対する(したい)」ということ。親密圏の崩壊、なのだ。論理的に割り切っても、どこか割り切れないところが出てくるのが人間であり身体であり感情なのではないのか。そういえば、携帯出会いサイトによる売春が「割り切り」という隠語で呼ばれているのはなんとも象徴的だ。「割り切る」のが売春だが、売春は決してマッサージにはならない。

澁谷は別の章で包茎手術の悪について論じている。日本ではお馴染みの真性包茎と仮性包茎の区別が海外では見られなかったり、現在の包茎=不潔・早漏などのイメージは、戦後になって一部の美容整形外科が宣伝したものであることなどを示していく(すでにある言説が美容整形産業によって過剰化していく)。とくにT須クリニックの社長のインタビューを紹介しているのには爆笑。「日本人の半分、5千万人が割礼すれば、これはビッグマーケットになると思ってね。雑誌の記事で女の子に「包茎の男って不潔で早くてダサい!」「包茎治さなきゃ、私たちは相手にしないよ!」って言わせて土壌を作ったんですよ。…「義務教育を受けていなければ国民ではない」みたいな。そういった常識を捏造できたのも幸せだなあぁって。(笑)」 笑いマークついているけれども、これより前のところで澁谷は、劣悪な技術と環境でなされた包茎手術の失敗によって自殺した男性を紹介している。果たして、「笑い」で済ますことができるのか。海外では、生まれたときに割礼で失った皮を「あえて」再生する手術もあるほど、「包茎待望論」はあるようだし。この章は包茎に悩む全ての日本男子に一読をすすめる。特に男子中高大生。

「暴力」について論じているところでは、まず男‐男の間での暴力から入り、男‐女間での暴力、いわゆるDVやデートDVに触れている。ただ当然、澁谷は通常の殴る蹴るなどの暴力とレイプなどの生暴力をわけて考えている。暴力の下位カテゴリーとして殴る蹴るなどの身体的なものと性器への攻撃、強姦などの性的暴力がある、ということだと思うのだが、身体的/性的暴力の区分をどこまで澁谷がはっきりと意識をしているのかはよくわからないところがある。例えば男‐男間暴力が頻繁に起こる場所として紹介される軍隊(自衛隊含む)で、上司から部下への「レイプ」は男同士であるため当然、肛門性交になるわけだが、これは現行の法律では「強姦」とはならない。法的には肛門は性器ではない。AVでも肛門を無修正で写すことができるが、それが性器として法的に認定されていないからだ。男‐男間での「強姦」を澁谷が身体的名暴力ととったのか性暴力ととったのか。これは後者である。ということは、澁谷は肛門を「性化された身体」であると考えている。性化されている/されていないは、先に触れた法律からも分かるように、言説的なものであるのだ。当然、全てが言説的構築物というわけではない。が、国によって強姦の定義が違うように、性化されている/されていないは言説的なものである。だからここで先の違和感に戻る。澁谷がいうように、風俗嬢たちをマッサージ嬢として性化された労働を脱‐性化することは、果たして可能なのかと。この脱‐性化のプロセスを経ることなく、風俗業を「労働」であると考えることは、問題であるといわなければならない。論理的には間違っていないだろうが、情動的には少し待たなければならないはずだ。包茎手術を美容整形の一つでありながら、美容整形とも少し異なるものとして論じている澁谷の直感的(情動的)判断は、正しい。

とりあえず1回目。しばらくしたら2回目の更新をば。人間、アウトプットをしないと脳みそが腐る。言語学習ではないが、意識的に何か出していかないと、だめだ。さらにそれが誰かに届けばもっといいのだけれど、なかなかそこまで上手くは行かない、かもね。

■2009年10月18日(日)23:10  「ケータイは淋しいメディアなんです」
全然、進まないなあ。日々の労働をそれとは別の計画が進まないことの言い訳にしている。それに、日々の労働はやっぱり日々の労働であって、それをやりさえすれば日々は進んでいくのだ。つまり、それをやってしまえば、あとばビールを飲んで横になりつつ映画でも見て、たまに本をめくるなんていう生活をしていても、問題はないのだ。こ、これはっ!? よもやゴブリン・パレス!? なるべく人と会って話をするようにもするのだが、問題は、「別の計画」とは自分ひとりで立ち向かわなければならない性質のもので、つまりは孤独との戦い。今年の6月のケリをつけた一つの計画は、予想以上の好成績を収めて返ってきた。それをバネに! とは思うのだが、でも考えてみれば昨日もそれを思ったな。

ノート・パソコン「ぱなそ君」を充電して、自室でも喫茶店でもいいのだが電源をいれキーボードを打ち始めるのが、精神的に一番しんどいのだった。だから今日もこの駄日記を書き始める前に2時間ぐらい、ぬくい布団に包まってぬぼーっとしていた。でも考えてみれば不思議だ、いざこうやってかたかた打ち始めるとだんだんと楽しくなるから。

なんだろう、スタートは自分との会話なのだが、最終的にはどっかに他者が出現する(それを召喚する)可能性があるからだろうか。もちろん私はそこまで「上手く」ない。だが、テクストというのは常に過剰で常に不足なのだが、コントロールしているつもりでも、どこか何か変なところが出てくる。それはきっと「出会い」なんだろう、とか思う。

今まで書き溜めたものでとりあえず完成した(と自分が判断したもの)をせっせとpdfにする。商業誌に載ったやつではなくて、主として行き先のないもの。行き遅れというかカミカゼ特攻隊というか。今度、いろんな人に読んでもらおうかと思っている。そして何より、完成していないものが結構ある。この間もまた、一つアイデアが浮かんできた。

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見たもの紹介で場を濁す。

見た芝居。劇団青年団リンク・ままごと『わが星』(脚本・演出 柴幸男)@三鷹芸術センター。これはここ3年の芝居人生で、間違いなく最高の作品。こんなものに出会えた奇跡をすなおに信じたい。物語はあるようでないような不思議な世界。「ちーちゃん」と呼ばれる地球とその家族、その友達・月ちゃんたちが一緒に住む団地を、宇宙として/団地として描き出す。ちーちゃんが一周回れば一日経つし、ちーちゃんが太陽の周りを一周回れば一年が経つ。ちーちゃんと月ちゃんは二人で一緒にくるくる回りながら円形の舞台を走り回ってはじゃれ遊ぶ。ちーちゃんが誕生日にお父さんからもらった望遠鏡で世界をのぞけば、ちっちゃいちっちゃい人類が生まれ死に戦い泣いているのが見える。例えば『少年B』で見せたような思春期少年のやや過剰な自意識を上手く切り取る技が、この作品のいたるところにも見え隠れしていて、柴の舞台では宇宙と団地が何の問題もなく重なっている。

そしてなにより、「口語ラップ」といわれるリズムに合わせた独特のセリフが秀逸。言葉もダンスも混ざり合い溶け合い見るものの心に染み渡る。それはまるで地球に地震が起こったように、その場にいるものを震えさせる。脚本をいくら見てもこの振動(震動)は伝わってこない。演出のなせるもの。芝居のできること、芝居しかできないことなんだろうと強く確信。1時間20分という短い芝居だったのだが、後半の三分の一はずっと涙を流していた。芝居を見て泣いたのは、とりあえず今のところこれが最初だった。隣に座った見ず知らずのおねーさんもずっと泣いていた。悲しかったのではない、嬉しくて泣いてしまったのだ。でも、何が嬉しいのかよくわからない、それはすこし文学研究をやってきた身としては悔しかった。ので、急いで演劇関係の本を何冊か取り寄せる。まずは演劇史。

柴幸男は11月に駒場アゴラで平田オリザの『チャイニーズ・スープ』を演出する。興味のある人はぜひ。私は支援会の会員のためただで見に行く。

天然果汁『Volume』@王子小劇場。並み。可もなく不可もなく。『ヘルター・スケルター』みたいな美容整形(厳密には医療だけれど)ゾンビのモデルの話。歳をとってしまった姉との対話にもっと浦島効果を入れたらSF者としては絶賛したのかもしれない。ただ、モデルが自身の身体へのこだわりというかひっかかりを、「女子高生コンクリート詰め殺人事件の被害者女子と直前まで一緒にいた友人」というトラウマで表出したのは、端的にいえばいけなかった。あんなに強力なシニフィアンをぶち込んでしまうと、帰着するあてを失い不気味にさ迷うから。というと芸術的効果が表れているかのような気に思えるが、そんなことはなく、それまでの文脈を壊してしまっていた。もったいない。強すぎるシニフィアンは作劇を破壊する。

らいおんパーマ『くちびるコミック』@王子小劇場。ゆるい劇団のゆるい芝居。出ている役者もおっさんばかりで、兼業の香りがする。セリフをとちったり怪しい動きをしても、なんだか全部許してしまうのはこの劇団の芝居を見たのは3回目だからだろうか。もう慣れた。でも、フィクションとメタ・フィクションの構造を上手に取り込み、演劇的に可視化していたのには好感がもてる。2時間やる芝居じゃないけれど、ちゃんと2時間見れてしまうからすごい(のかもしれない)。

見た映画。スピルバーグ『ミュンヘン』。うーむ、武のヤクザ映画のほうが好きだ。もちろん『ミュンヘン』は文字通りの政治映画であり、武の映画は私利私欲とか組織同士の政治力学とかが中心で規模はちっちゃいのだが、それでも両者が描いていることは似ている気がした。だったらいっそ政治性なんて剥ぎ取ってしまったほうがすっきりするのではないか、というのは思った。ちなみに今、秘かなブームなのが、武映画『BROTHER』に出てきた「ファッキン・ジャップぐらいわかるよバカヤロー」というセリフで、何かあるとすぐに言う。まるで中学2年生のように。酔っ払うと多用する。

山下敦弘『松ヶ根銃乱射事件』。銃をいつ乱射するのか、そして誰がどうしてどのように、という疑問を見るものの頭に常に満たし続ける構造になっていて、そういう意味ではとてもファリック。いざ爆発したらこうなったというオチも空虚感があってよい。空虚ということは、つまり日常的ということであるし。ただ、眠い。実際、寝た。

読んだ本。長谷敏司『あなたのための物語』(早川Jコレクション)。これは! タイトルだけ見るとテッド・チャンを連想するかもしれないが、むしろ内容は圧倒的にイーガン。『順列都市』と私の理解では「しあわせの理由」とか「祈りの海」とかなんかそういうものろもろの脳内操作系SFとも確実につながっている。はっきり言って私はまだこの物語の面白みを全然つかめていない。読んだのは来週の24日土曜日にあるSF/評論研究会の課題図書だからだが、なんとかその時までうまく分節化できるように頑張る。

あと、柄谷行人『隠喩としての建築』(岩波書店)も半分くらいまで。これが研究会のメイン課題。『探求』と大いに被り比較的読みやすい。がやはりマルクスの柄谷読解は難しく思う。『探求』のときもそうだが、価値形態論にマルクスひいては柄谷がこだわる理由、あるいはこうも言っている。「資本主義はディコンストラクテォブなのだ」とも。その根拠を私はつかみ損ねている。

twitter経由で知った。電通「他己ウケ(http://www.dentsu.co.jp/di/consumer/takouke/)」、これカオス。ここまでざっくばらんにやってもらうとむしろすがすがしさすら覚える。「オレオレ」から「ねーねー」というのはなかなか面白いが、何より気になるのは登場人物のジェンダーがコミュニケーション作法の境界線として機能しているということ。具体的に言うならば、「オレオレ」系は男(キモオタ?)で「ねーねー」系は女子中高生として描かれている。これは、ジェンダーを含みこんだリサーチ&プレゼンテーションなのだろうか? 

池袋新文芸座で11月7日土曜日に北野武暴力映画オールナイトをやるようだ。『その男』『3-4x』『ソナチネ』『HANA-BI』だそうな。私は大変、残念なことにこの時、東京にいない…いれば多少無理をしてでも見に行くのだが。『HABA-BI』よりも『BROTHER』のほうがいいのにね!

ケータイ小説「携帯彼氏」は「ラブプラス」へのオマージュなのだろうか。

■2009年10月09日(金)23:52  アカバニアン的には場末のスナックは人生の最終処分場
青年団リンク・ままごとの新作『わが星』(作・演出 柴幸男)を見に三鷹へ。でも、まだ芝居は見ていないし、芝居の前に負傷兵の見舞いに行くという用事もある。書くべき原稿が溜まっているのだが、本題に行く前のウォーミング・アップとして近況報告。

今読んでいる本。藤木TDC『アダルトビデオ革命史』(幻冬舎新書)。これは! 面白い! まだ読み終わっていないのだが、私が勝手に思うところの現代AVの特徴とされる「美少女+ラディカル(マニアックなハードコア・プレイ)」や「素人もの」がどうして特徴となったのかが歴史的な成立過程を確認することでわかる仕組みになっている。特に、技術的な水準でのメディアの変化、ビデ倫や警察の取り締まり、世論(誘導)といった法律的な水準での変化を検証していくとこはとても勉強になる。つまりAVの内容論だけではなく、メディアとして社会的なものとしてのAV像ということ。

見た映画。行定勲『きょうのできごと』。原作つき、らしいのだが、それはあんまり関係ないのかなあ。妻夫木聡と田中麗菜が演じる大学生カップルとその仲間たちのぐだぐだ飲み会の様子を中心にして、壁に挟まった男や浜辺に打ち上げられた鯨などワンポイント調味料が加えられて描かれるそれぞれの「きょうのできごと」。ちゃんと描けているのだけれど、私がずっと気になったのは、「ああここにあるのは美男美女の集まりなのね」という勝手な疎外。でも、こういった疎外感は単なるルサンチマンとして片付けるのではなく、丹念に考える必要がある気がしないでもない。感情移入を阻んだのは、いったいなんだろう? 大学生のお気楽ライフだろうか? それとも登場するカップルが容姿に関する形容ばかりならびたてるからだろうか? 私が唯一好感を持てたのは、男(柏原崇)と電話だけでやり取りするその恋人の関係だけだった。

見た映画。『ブロークバック・マウンテン』。カウボーイ。ホモ・セクシュアル。保守的な牧場ではホモセクシュアルは厳しく罰せられるというホモフォビアと、カウボーイやロデオのマッチョ、それぞれの家庭で描かれる規範的なジェンダー、などなどなど。ぼんやりと頭に浮かんでは消えていくものはたくさんあったのだが、あんまり考えずにただ見入ってしまった。アカデミーだっけ? 非常によく出来ていて面白い(ああ、感想が雑だ)。

見た映画。是枝裕和『空気人形』。(ちっとネタバレあるよ!!)評論家の藤田さんと渡邊大輔さんと一緒に見に行く。前評判をチェックしすぎたのか、心底堪能することができなかった。私の中で是枝作品の頂点にあるのは『ワンダフルライフ』と『花よりもなほ』なのであるが、『空気人形』はその高みまで至らず。読売新聞の映画レビューで例えば「穴の開いた空気人形に息を吹き込むシーンは感動的だ」とか、現代の人間は空気人形同様に空虚だといったものを目にしていたが、単純にそういう話でもないところが是枝のすごいところであるのは確かだけれど。渡邊さんが何度も繰り返していたのは是枝は「疎外論」の人であるということで、これには私も同意する。そもそもが生身の人間の代用品であるダッチワイフ=空気人形は、その中身の空虚さから影も透けてしまう。だからガラスの空き瓶にシンパシーを抱き、海辺で拾ったラムネの瓶をとても大切にする。ラムネの瓶というのはガラスの中にビー玉の入ったあれ。それこそが空虚だけれどもビー玉=心を(なぜか)持った自分の鏡像なのだろう。ARATA演じるレンタルビデオ屋の店員は、確かに穴の空いてしまった空気人形に文字通りの「生命の息吹」を注入するのだが、やはり問題にしなければならないのは、コミュニケーション=息の一方方向性だろう。ARATAは「君にしか頼めないことなんだ」と言って空気人形の空気を抜いてはまた吹き込むということを何度も何度もする。これは、明らかに倒錯的な行為であるのだが、何をどうひっくり返した倒錯なのか、考えてみるととても難しい。空気人形の本質である空気=空虚こそを求める姿勢であるともいえるし、空虚さを抱えた自分が他者に向かって唯一できることを脅迫的に反復=確認しているのだともいえるし、いずれにせよ言えるのは普通の性行為よりもよっぽど性的な描写であるということ。空気人形はARATAもまた自分の中まであると「誤解」し、穴を開けて空気を吹き込もうとするが決して膨らむことはない。むしろ、いや当然といえば当然なのだが、生命は失われてしまう。自分の空虚さは他者によって満たされる、というのは作中で引用されている吉野弘の詩が伝えるメッセージでもあるのだが、そこまで楽観的なつくりになっていない。あんまり分かりやすい図式に飛びついてしまうと、とてもつまらなくなる。もう少し、いろいろ考えてみたい。

それはさておき、オダギリジョー演じる人形製作師のところへ空気人形が訪ねに行き、そこで廃棄された仲間たちを見つめるシーンがある。そこで心を持った空気人形軍団が結成され、すわ人類への反抗! 決起! 革命! と勝手に妄想が爆発したのは私の脳みそがSFに毒されているから。もちろんそんなことはなく、空気人形は打ち捨てられた仲間たちを見ながら、自分が心を持ってしまった理由をじっと考えるのであった。このシーンは、まさに『エイリアン4』。そして空気人形がゴミ袋からぴかぴかと光るきれいな空き瓶を集め、並べるシーンはまさに『アメリ』。だから『空気人形』はジャン=ピエール・ジュネ監督へのオマージュ。

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久しぶりに赤羽は餃子センターという店で餃子を食べる。この店は、不定休で昼の12時からと夕方の5時からそれぞれ2時間ずつ、つまり1日4時間しか開かない。多分、赤羽で一番おいしいそして安い餃子を出す店だろう。270円で巨大な餃子が5つ。肉たくさん、皮厚く、汁たらたら。チャーハンとセットで食べて640円。冷暖房がなく夏場に行くと、まさに灼熱地獄。今ぐらいならばちょうどよいかもしれない。赤羽小学校の傍です。赤羽にお寄りの際はぜひ。

で、餃子センターに入ったら知り合いが飯を食べていた。ので、夜、仕事が終わったら一緒に飲まないかと言うとOKとのこと。町を歩き店に入ればイベントは発生する、らしい。喫茶店でキーボードかたかたやって3時間、夜の10時過ぎにOK横丁はYaki-yaへ向かう。そこで2時まで、その後、スナックへ場所を変えて5時まで。久しぶりに飲む。ゲロを吐くかと思うくらい飲む。歌も歌ったのだが力が入らずただでさせひどいのにさらにひどくなった。スナックの窓を開ければまだ夜だったけれど、家について風呂に入ったら外は明るくなっていた。そのくらいの時間まで飲むなんていうのは実に久しぶりだった。一緒に飲んでいたのは、10年位前私が大学生だったときに今はなき立ち飲み「しれとこ」で毎晩毎晩飲んだくれていた相手で、私より10年長。気がつけば10年前のその人の年齢に私は近づきつつあるのだが、かつてのように飲み歩くことなどできないすっかり弱くなっている自分がいる。弱いというのは酒がという意味ではなく、精神的にということ。金はある、しかし時間とそして覚悟がない。

ネイティブ・アカバニアン的な話で盛り上がる。やはり行き着く先はスナックだみたいな結論になった。清野とおる『東京都北区赤羽』で紹介されている飲み屋「ちから」は居酒屋だったと思うが、そこに負けず劣らず怪しいスナックならば何軒かいったことがある(つれていってもらったことがある)。やたらに濃い酒をだすスナックには要注意だ。ママが客を殺しにかかっている! 氷の入ったグラスの半分で焼酎が止まればそれはまだラッキー。場合によってはグラス3分の2くらいまで酒で満たされる。酔っ払ったマスターが焼酎を焼酎で割っているのを見たことがある! 気をつけろ! そこはたいてい人生の最終処分場というか、一般人に迷惑をかけないために特定の人間を引っ掛ける防波堤となっている。常連客から怒鳴られたり、怒鳴り返したりというバイオレンス空間が広がっている(らしい)。

そういや、今はもうなくなったスナックを花見の2次会で使ったとき、皆家に帰ることを諦めて、床とかイスとかに勝手に寝っころがり、朝を向かえ三々五々いるべき場所へ戻っていったことがある。なんか、ああいうのは好きだ。寝返りをうったらイスから落ちて頭を床にぶつけては鈍い音がしたり。私たちは朝日を浴びてふらふらとさ迷い歩くゾンビだった。

だから今日は全般的に低調気味。明日は長くなる。連休もあってなきが如し。原稿はいま5分の1、そしてまだ終わりは全然見えてこない。

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