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東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)
――今更ながらレビュー

このレビューの目的は、東浩紀『動物化するポストモダン』の第二章「データベース的動物」を読解し、東のキーワード「データベース消費」「動物化」を正確に理解することとする。オタク系評論あるいは若者一般についての社会分析などの文脈において注釈だけつけて動物化というキーワードがなんのためらいもなく表れるようになり、東の狙いはある意味成功したと言えるが、言葉の響きだけで動物化動物化と騒いでも何の意味もないので、動物化という言葉が広く共有されるようになった今こそ原点であるこのテクストに戻ってみる必要がある、と私は考えている。しかしただ解説するだけでは味気ないので私なりに東の理論を援用しあるいは批判的に再構築し、オタク論を展開してみたいと思う。

というわけで第二章「データベース的動物」の解説に入る。

まず東はこの章の冒頭で二つの問題を提起し、それに答える形で後の論を進めている。ポストモダニズム社会になると複製技術の発達によりコピーとオリジナルの区別がない「シュミラークル」(ジャン・ボードリヤールによる)が増殖し、かつまた近代を支えてきた統一的なイデオロギー=「大きな物語」(ジャン=フランソワ・リオタールによる)が機能不全に陥るようになるとした上で、次のように問い掛けた。

(1) ポストモダンではオリジナルとコピーの区別が消滅し、シュミラークルが増加する。それはよいとして、ではそのシュミラークルはどのように増加するのだろうか? 近代ではオリジナルを生み出すのは「作家」だったが、ポストモダンでシュミラークルを生み出すのは何ものなのか?

(2) ポストモダンでは大きな物語が失調し、「神」や「社会」もジャンクなサブカルチャーから捏造されるほかなくなる。それはよいとして、ではその世界で人間はどのように生きていくのか? 近代では人間や神が社会を保証することになっており、具体的にはその実現は宗教や教育機関によって担われていたが、その両者の優位が失墜したあと、人間の人間性はどうなってしまうのか?

一つ目の問いに対する答えとして東はシュミラークルを生み出すものは「データベース」であるとし、データベースの深層とシュミラークルの表層の二層を往復する消費行動を「データベース消費」と名づけ、極めてポストモダン的なものと評した。その過程を確認してみよう。東は大塚英志の『物語消費論』を下敷きにしている。大塚は『物語消費論』においてビックリマンチョコの例にとり、個々の商品=「小さな物語」を買うことでその背後にある設定=「大きな物語」へとアクセスするという新しい消費の形を「物語消費」と名づけた。大塚の言う大きな物語は設定であり世界観であり、それを踏まえていれば原理的に無限にシュミラークルを生み出すことができるのである。東は大塚の小さな物語と大きな物語の対比をそのままデータベースの深層とシュミラークルの表層の対比へとずらし、返す刀で、大塚が『物語消費論』を執筆した時よりもさらに徹底して社会がポストモダン化した現代においては大きな物語ではなく「大きな非物語」がその位置を占めていると言う。五〇年代までは大きな物語は機能していたが、七〇年代以降から大きな物語は徐々に機能不全となり、もはや大きな物語を求めていないのにも関わらず大きな物語式の教育を受けさせられた世代は、失われた大きな物語をサブカルチャーで補填しようと試みた(例えばオウムという形で)。この失われた物語の補填という作業は、オタク系文化の中にも当然見ることが出来て、例えば『ガンダム』シリーズのファンが好んでする宇宙世紀の年表作成など個々の作品の背後に世界観を積極的に求める姿がそれである、と東は言う。ところがポストモダン化がさらに進んだ社会においては、もはや大きな物語を補填したいとは思わない人たちが登場し始めた。その典型が『エヴァンゲリオン』を消費する人たちである。彼らは、例えば『ガンダム』のように大きな物語の補填として作品を読み込み設定を見出すのではなく、二次創作や「キャラ萌え」(物語から切り離された特定のキャラクターの断片に感情移入をすること)のために必要となるキャラクター設定なりデザインなりに注目したのであった(大きな非物語)。またオタクをそのようにかきたてるように、製作者サイドもかなり意識的に『エヴァンゲリオン』というアニメ作品をオリジナルとして特権化するのではなく、同じ世界観を共有してはいるが内容はアニメとは関係の無いような麻雀ゲームや育成ゲームを発売し、あるいはテレビ放映版のリミックス的要素のつよい劇場版を制作し、それらの作品・商品全てがシュミラークルの表層において等価であることを印象付けている。ここで東は「萌え要素」という新しい言葉を作っている。萌え要素とはネコミミ、眼鏡、メイド服、しっぽ、触覚などのように「消費者の萌えを効率よく刺激するために発達した記号」のことである。オタクがある作品を消費するということは、まずそれを萌え要素に解体しデータベースへと蓄積しながら、キャラクターの水準(=シュミラークル)で感情移入をする(キャラ萌え)、という二層構造を持っているのである。そして新しくデータベースに蓄積された萌え要素は、別の作品に使われそこでオタクの萌えを刺激するのである、と。「『萌える』という消費行動には、盲目的な没入とともに、その対象を萌え要素に分解し、データベースのなかで相対化してしまうような奇妙に冷静な面が隠されている」のである。このように単純に作品(小さな物語)を消費することでもなく、その作品群を通して背後にある世界観を構築することでもなく(大きな物語)、またキャラクターやデザイン(大きな非物語)を消費することでもなく、その背後にある巨大なオタク・データベースを消費することを「データベース消費」と東は名づけた。一つ目の問いに対する答えの解説はここまでである。

二つ目の問いに対しては、ポストモダン社会における人間は「データベース的動物」になると答えている。これはどういうことなのか順を追って見て行くことにする。「動物」という言葉を使う場合、東が念頭においているのはヘーゲルの歴史哲学とそれをポストモダニズムの文脈で読み直したアレクサンドル・コジューヴの『ヘーゲル読解入門』という著書第二版における註である。ヘーゲル哲学では、人間とは他者との闘争を経て自由な近代的市民へと成長し絶対知へと近づくことができる存在であり、この過程を歴史と呼んだのであった。これに対してコジューヴはヘーゲル的歴史が終わった後(つまりポストモダン社会になると)「アメリカ的動物」と「日本的スノビズム」という二つの生き方がある、と註に記している。(アメリカ的)動物とは与えられた環境を否定(闘争を挑むことを)せず順応・調和し生きる様である。他方、(日本的)スノビズムとは「与えられた環境を否定する実質的理由が何もないにも関わらず、『形式化された価値に基づいて』それを否定する行動様式」である。ここで東は岡田斗司夫が著書『オタク学入門』で述べているオタクの定義を参照し、岡田の描くオタク像とはまさにコジューヴの言うスノビズムであるとしている。岡田は内容が幼稚であり時に無意味にすら思えるものでもその形式を愛し形式のなかで意図的に差異を作り出し作品を読むことを、江戸時代の「粋」の文化と対照させながらオタクの行動様式と定義した。また東はスラヴォイ・ジジェクの「シニシズム」という概念を用いて、スノビズムの側面を援護射撃している。シニシズムとはスターリニズムのように「本当はそれが嘘であることを知っている。しかしだからこそ、彼らはそれを信じるふりを止められない」という姿勢であるが、オタクのスノビズムにもシニシズムは十分見出すことができると東は言っている。しかし、近代からポストモダンへの移行期にスノビズム=シニシズムは必要とされてきたが、しかしポストモダン化が徹底された現代においてはもはやオタクはスノビズムすら必要としなくなった、と続ける。そこで東はギャルゲーを導入する。ギャルゲー(主にテキストを読むマルチエンディング・ストーリーのノベルゲームを指す)はそれを消費するオタクは「泣き」と「萌え」を程よいバランスでもたらしている。またギャルゲーを萌え要素に分解し、システムに改変を施すことでマッドムービーのような二次創作を行う一方、シュミラークルの表層ではそこで繰り広げられる小さな物語(作品内ドラマ)に(適度に)感動するオタクの消費行動は、小さな物語と大きな非物語を「バラバラに共存」させている(解離的)のである。そしてこの両者へのオタクの志向性は種類を異にしている。小さな物語は「欲求」され、大きな非物語は「欲望」されるのである。つまり「シュミラークルの水準で生じる小さな物語への欲求とデータベースの水準で生じる大きな非物語への欲望のあいだのこの解離的な共存こそ、ポストモダンに生きる主体を一般的に特徴付ける構造」なのである。ここで欲求/欲望の違いを説明しているが、前者は「特定の対象をもちそれとの関係で満たされる単純な渇望」であり例えば食欲のような本能的なものである(そして動物的なものでもある)、一方後者は性的欲望のような他者の欲望を自分が欲望するといった間主体的なものであり人間的なものである。「間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏-満足の回路を閉じてしまう状態」が動物化である。この欲求/欲望を用いて東はオタクの「保守的なセクシュアリティ」について言及している。オタクが耽溺する二次元ポルノグラフィーは時にかなり激しく倒錯的なものがあるのだが、果たしてオタクは現実の性犯罪者予備軍なのであろうか、というおなじみの議論である。ここで東は「性器的な欲求」と「主体的なセクシュアリティ」は異なるとし、ギャルゲーなどのハードユーザーはこの両者を切り離し「倒錯的なイメージで性器を興奮させることに単に動物的に慣れてしまっている」のではないか、と言う(「訓練をつめば誰でも掴めるものでしかない」とも言っている)。このように世界がデータベース消費化(動物化)する時代を「動物の時代」として、動物化の波は別にオタクに限ったものではないことを、宮台真司の著作を参照しつつコギャルを例にとって説明している。オタクが意外と社交的であるのは、オタクが共同体(大きな物語)をルールにのっとって生きているのではなく、ただ自分が望む情報を得るためだけに便宜的に社交性を構築したからであり(形骸化した人間性)、オタクは常に「降りる自由」を持っている。このような状況の中で「生きる意味」を求めようよしたら行き着く先は小さな物語しかないのである。「データベース型世界の二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた二層化されている。それは、シュミラークルの水準における『小さな物語への欲求』とデータベースの水準における『大きな非物語への欲望』に駆動され、前者では動物化するが、後者では擬似的で形骸化した人間性を維持して」おり、このような人間像を「データベース的動物」と東は名づけた。そしてデータベース的動物である「ポストモダンの人間は『意味』への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている」のである。これが第二の問いへの答えとなっている。

さてここからは私の個人的見解になる。率直な感想としてやはり東の理論は強い、と思わざるを得ない。オタクの行動から個別の現象を取り出して、このデータベース・モデルに当てはめようとするとぴたりとはまりうまく説明できる。そしてデータベース・モデルが解離的であるということもとても重要である、なぜならこの「解離」というものは香山リカが口をすっぱくして言っているように現代をとりまくさまざまな問題(コギャルでもリスカでもぷちナショナリズムでもゴスロリでも自分探しでもひきこもりでもなんでも)の根底にある「ストレス処理装置」だからである。トラウマとして抑圧し精神分析の語りによって言語を通し再構築することでストレスを回収する方法とは違う、解離によるそれ。オタクの消費行動を分析することで抽出したモデルだが、これは演繹的に(すなわち現代社会に生きるものであるならば、という前提を共有すれば)汎用可能である。このように東理論を無敵にしていにはさまざまな要素があるのだが、その一つに「大きな物語が崩壊した」というのある種の開き直りとも思える姿勢がある。おそらく細かいレベルでみれば近代的イデオロギーがまだ十分に効果を発揮している領域もたくさん見つかるとは思うが、全体の流れとして「そういう方向にある」のは間違いが無いし(だから東も間違ってはいない)大きな流れを捉えた上でデータベース・モデルを提唱するのだから有意義だろう。だから東理論に対して「ここにはまだ大きな物語が」とか、もっとミニマムに「『デジ・キャラット』は例外」とか「『ガンダム』ファンにもキャラ萌えはいた」とか批判しても有効であるとは思えない。そしてこの批判には別の重大な問題が隠れている。それは何か。

ジャック・デリダがフッサール現象学批判の文脈で、「現前を再現前の可能性に依存させている」反復的な構造を指摘し、あるいは「根源」と「意味」の関係が決して一方的な直線関係にあるのではなく常にズラす差延化の運動の中にあると述べた。この差延化の運動すなわち「戯れ」は東が提唱したデータベースとシュミラークルの二層を萌え要素が反復する運動と極めて似ているのではないだろうか。東のモデルに従う限り絶対的に客観的な「萌え」そのものには我々は到達することは出来ない。「萌え」は要素に解体し小さな物語の中に紛れ込ませることでオタクの前に現前化するのだ。ここで私はこの絶対的・客観的「萌え」をカントに倣って「萌え自体」と呼ぶことにしたい。東のモデルでは、小さな物語を萌え要素に解体しデータベース化する時に何を萌え要素とし何をそうしないかという判断基準が明らかにされていない。そこが東の欠点だと主張しようというのではない、実は明らかにすることが出来ないがゆえに東は言及していないのではないか、と私は考えている。つまり萌え自体を語るために萌え要素を抽出したが、萌え自体を現前化しようとする作業が既に萌え要素によって純粋な同一性からズラされてしまっている(差延化)からだ。私はこの萌え要素による萌え自体の差延化のプロセスを「萌延化(もえんか)」と呼びたい。先ほどの話に戻るが、『ガンダム』の時代に戻ってキャラ萌えを主張するのは、それこそアイテムを萌え要素で萌延化していることになるのではないだろうか。たとえキャラ萌えという言葉を便宜的に使ったとしても、そのそしりは免れ得ない。そしてこの萌延化の運動は、オタクの奇妙なアイデンティティの問題への解答を与えてくれる。オタクは他者からオタクであると規定されることを嫌い、自分たちはオタクではないと主張し、どこか他のところにもっと「コア」なオタクがいると主張することがある。「自分たちはオタクである」と自己規定することがないのである。それは中森明夫の「おたくの発見」以降、大塚英志が再三問題視してきた「負の記号としてのおたく」であるからかもしれない。しかし、数の上でもクオリティの面でも八〇年代とは比べ物にならないほどマス化・洗練化されたオタクが、未だに自己規定の言葉を持たない/拒否するのは、萌延化がオタクの中で起こっているからではないのか。オタクの中で起こっている萌延化は萌え自体と萌え要素の運動ではなく、いわばオタク自体とオタク要素とでも言うべきものの間で起こっている運動である。これによってオタクはオタク的消費活動を享受しつつ自分たちがオタクであるという自他による規定を巧妙にすり抜けることが出来るのだ。この萌え自体と萌延化については、さらに別のところで詳しく論じてみたい。

以上が東浩紀『動物化するポストモダン』の第二章の要約、およびそれについての個人的見解である。本稿では触れなかったが第一章は「オタクたちの擬似日本」と題され、オタク系文化の全体像をスケッチし、第三章「超平面と多重人格」はギャルゲー『YU−NO』論である。興味を持たれた人は是非自分自身で本書を手にとってもらいたい。












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